五木ひろし(イツキヒロシ) のチケット情報

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五木ひろし
五木 ひろし(いつき ひろし、本名:松山 数夫〈まつやま かずお〉、1948年3月14日- ) は、日本の演歌歌手、作曲家、俳優。身長173cm、血液型はA型。京都府生まれ、福井県三方郡美浜町出身。所属事務所は株式会社五木プロモーション。レコード会社は、ファイブズ・エンタテインメント。妻は元女優の和由布子。

略歴
生い立ち
父親は韓国系の鉱山技師で鉱脈を追って家族で各地を転々とし京都府で生まれる。鳥羽市立加茂小学校に在籍していた頃から歌手になりたいと思っていたという。1963年3月、中学を卒業した翌日、長姉を頼り単身京都へ移り、関西音楽学院に入学。一年後の1964年5月、作曲家の上原げんとを紹介され、プロ歌手を目指し上京。上原の内弟子となり、松方弘樹らと共に歌を学ぶ。

1960年代
上京して4ヶ月後の1964年9月、第15回コロムビア全国歌謡コンクールにて優勝。仕事は0になり貯金も尽き、食べる物にも困った。机の引き出しの奥から出てきたフジテレビの食堂の食券を握り締め、東中野のアパートから当時東京・河田町に社屋が存在したフジテレビまで歩いて行ったこともある。同じアパートに住んでいたホステスから弾き語りを勧められ、銀座の高級クラブ『クニ』で歌い始め1969年、ここで作曲家の遠藤実を紹介され、ミノルフォンと契約。12月、“三谷謙”に再び改名して、「雨のヨコハマ/東京 長崎 札幌」で再デビューを果たすもヒットに至らず。

デビューしてから約5年間の間に2度も芸名を変更するなど不遇の時代を過ごす。

1970年代
1970年、故郷福井の放送局福井放送のプロデューサーの勧めで、よみうりテレビ制作のオーディション番組『全日本歌謡選手権』に、歌手生命のすべてを賭けてミノルフォン専属のプロ歌手“三谷謙”として出場。当時銀座のクラブでの弾き語りが、サラリーマンの初任給3万円の時代に月収50万円もあり、もし落ちたらプロ歌手として失格の烙印を押され、弾き語りの仕事にも響く、この生活を捨ててまで危険な挑戦をすべきかで悩んだ。第1週挑戦時には、「これで駄目なら、ふるさとの福井に帰って農業をやる」と覚悟のほどを語っているが、最終的には10週連続で勝ち残り、グランドチャンピオンに輝く。これにより、レコード歌手として再デビューできる権利を獲得。同番組2週目の審査員だった作詞家の山口洋子が徳間音工
「五木ひろし」『ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典』。2019年08月31日(土) 12:37UTC
公式サイト
公演レビュー
  • 五木ひろし

    五木ひろしコンサートは、初めてだったので、観客として、コンサートを盛り上げてあげようと思い、クリスマスツリーよりも大きい電球が付いた、カラフルに点滅する、電飾パーカーを着て、ノリの良い曲のみ、スイッチを入れて応援していたら、コンサート中盤に、突然、五木ひろしさんが舞台上から、俺に話かけて来て、「このような応援姿は、初めて見ました。これを着るには、かなりの勇気とお金がかかるでしょう!今後のコンサートの参考にさせて頂きます」と、大絶賛し、会場全体が大いに沸きました!応援は、ペンライトが主流ですが、令和の新しい応援の形として今後も着て行くつもりです。本来は、ダンス用に作られた電飾パーカーですが、五木ひろしさんが、あんなに喜んで下さるなら、流行らせたいです。この件もあり、コンサートは、最高に楽しむ事が出来ました。

    ダックスフンド
  • 芸能生活55周年記念 五木ひろしコンサート2019

    母親が大好きで、楽しみにしていた五木ひろしさんのコンサートに行って来ました。 芸能生活55周年記念と言うことで、昭和から令和迄のヒット曲の数々を圧巻の歌唱力で歌い上げ、大満足なコンサートでした。 相模女子大は、家からも比較的近くなのでこれからも毎年コンサートしてくれると嬉しいなぁっ母親は、言ってました。母親の楽しみなので、あったらまた見に行きたいと思っております。

    ぽいぽいもん
  • 五木ひろし

    最高でした。27曲も歌うってすごい。 私はいつもひとりで行くんだけどじっくり五木さんの世界に浸って満足です。聞き足りない。

    モリピ-
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