鮎川「僕の方が少し歳は上ですけど、日本にビートルズの音が入ってきたのが64年で、僕は高校1年生。ラジオとレコード・マニアで、小学校の頃からリトル・リチャードとかレイ・チャールズとか聴いたり、シーナもそのときまだ小学校低学年やったけど、違う街で商店街の中にあるレコード屋に入り浸ってて。僕たちは離れた街で暮らしとったけど音楽にはものすごい深い入れ込みがあって。そういうふたりが出逢ったのはサンハウスというバンド。僕は60年代の後半にビートルズ、ストーンズ、アニマルズ、キンクス、ヤードバーズ、フーなどたくさんのグループに心奪われとって。なおかつ日本でもスパイダーズ、タイガーズ、テンプターズをテレビで観て夢中になって。ジミ・ヘンドリックスとかジェフ・ベックとかレッド・ツェッペリンとか、源であるブルースを深く掘り下げた音楽が出てきて。僕たちもブルースをもっと知りたい、聴きたい、演奏してみたいちゅう仲間でサンハウスを作ったんですね。その頃、盛り場のある街にはどこでも、博多にも中州にもダンスホールという職場があって。そこではダンスをするために音楽を提供するので割と融通がきかんとこもあって、それが嫌な生き残り組で作ったのがサンハウスやったんです(笑)。70年に活動を始めて4ヶ月後くらいにシーナがお客さんとして来て僕たちは出逢ったんです。ジェスロ・タルというジャズとブルースを融合したようなバンドの「ブーレ」っていう曲を僕らがレパートリーの中に入れて演っとったら、シーナに話しかけられて“「ブーレ」演っとったね”って。そんな音楽の話ができる人ちゅうのはダンスホールでもなかなか出会わんやったから」
シーナ「ちょうどジェスロ・タルはジャズとロックのちょうど間でジャズ喫茶でもロック喫茶でもかかるような曲で。私の中で“この夏一番だね”って思えるホットな曲を博多でサンハウスが演ってたの。びっくりした。“あんたたちの感覚はなんなん?”って。輸入盤でしかないレコードの曲をもう演奏してるんだもん」
鮎川「若い子から“いいじゃない”とか言われてね、“友達になりましょう”まで言われて、“おう、なろうなろう”ゆうてね。で、一緒に暮らしだしたんよ。サンハウスはずっとブルースを中心に続けてて、3年目くらいからオリジナルを作り出して、そんときもシーナはずっと横にいて。75年に『有頂天』っていうアルバムでデビューして。ただ僕たちはロックに思い入れが強かったので、ロサンゼルスのドアーズ、ビートルズはリバプール、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドはニューヨーク。なんで日本だけ東京からしか発信できない。そういうロック・シーン、なんか嫌だなっち。僕たち福岡で音楽を発信できればみんな仲間と一緒で最高だっちゅう、それが望みだったんです。のちにブームがあって、めんたんぴんが金沢にいたり、センチメンタル・シティ・ロマンスが名古屋でやったり、ファンの理解もどんどん大きくなって、東京発信ばかりがロックじゃねえみたいな機運もすごい高まってきて、ツアーもやれてたけれど、熱が冷めると77年くらいからは動員も減ってきて。僕はシーナと一緒に暮らしてたけれど親父が怒鳴り込んできてね。“お前らなんしとっか! ちゃんと結婚するならしろ”とかゆうて。子供も出来て、結婚式挙げて。僕はシーナの両親の援助でバンドを続けられたけれど、メンバーによっては家庭の事情でひとり抜けふたり抜けして、78年をもって解散することになったんです。親父が“まだ未練がましく福岡で活動しても無理かもしらん”ちゅうて、“東京で勝負した方がいいんやないか、続けるか続けんか、はっきりせんと”って。“田舎におればみんな友達やし、ちっとくらい名前も知られとろうけど、それで娘を幸せにはできんばい”みたいに説教されて。“わしがみよっちゃるけん、東京で思いっきりやってきい”ってケツを叩かれて。ほんとに親父の言う通りだと、自分のギターが仕事になるか、自分の曲が相手にされるのか、東京に行こうち決心して。それで東京に出てきて仕事にありついてやってたら、ひょっこりシーナが来たんです。“あら、なにしにきたの”ちゅう感じで。“暇やけん、私も来たよ”っち」
シーナ「(父親に)“行ってこい”言われた(笑)。“上の空じゃ”ゆーてさ」
鮎川「シーナがそわそわしよってたらしくてね。子供が双子やったけど“みよっちゃるから行ってこい”っち」
シーナ「“子供は連れていったらいかん”ゆうの(笑)」
鮎川「それでレコーディングしてた曲に、シーナがアイデア出したりして。話をしよったらその歌手が“シーナの方がこの歌似合うんじゃない”って。そのときシーナは歌手でもなんでもないのにね。その曲をシーナの歌で「涙のハイウェイ」ちゅう曲に仕上げた。なんちゅうかレコーディングのハイジャックみたいな(笑)。それがレコードとして出るという話がまとまって。僕たちはものすごく幸運にもデビューする道筋ができて。バンド・メンバーは、どんな音楽でもこだわりなく演ってくれる人じゃ物足らんのよ。博多では“これしかねえ”とかゆうてやりよる奴らとやりよったけえ、いろんなもんがやれる人が急にパンクなドラム演られても不信感があってさ。やっぱ博多の同じビジョン、ルーツ持ったメンバーと演ったがいいなという感じで、(元サンハウスの)浅田と川嶋の4人で組み直してツアーをスタートした。そんな感じです。それでいきなりエルヴィス・コステロの前座の話が来たのが僕らの初ステージでね」
鮎川「クリスは高橋幸宏の紹介で。幸宏はコステロのコンサートにお客として来てて。幸宏が細野(晴臣)さんに引き合わせてくれて、出来立てのYMOに誘ってくれたり、アルファレコードに移籍を薦めてくれたり。出会いがものすごい僕たちをずっと導いてくれてそのおかげですね」
シーナ「それとフュージョンも。渡辺香津美さんとか」
鮎川「矢野顕子さんもメンバーにおったし。いろんな融合があったんやね。僕たちは本当にパンク一筋で行こうと思ってたんですけどね、4人の最小限の編成で、ラウドな音を出してトンがった音楽をずっとやっていこうちう。“東京にはロックが足りねえ”いうのが自分のその頃の売り文句やったんです」
鮎川「自分たちはロックが好きで、自由なロックが好きで、人に指図されんで、飼い慣らされんで、自分たちで演りたい音楽をやりたい場所でやれる、そういうのを守っておきたい!っちゅう願いが強かったんです」
鮎川「野音で演るのがこんなに大変なことかち、改めて思います。こんなにありがたいことかち改めて思う。僕たちはトントン拍子で「ユー・メイ・ドリーム」をテレビで演ったり、自分たちのことばっかり考えよったんです。アルバム『ピンナップ・ベイビー・ブルース』を作ったときにお披露目のレコ発ライブを野音でワンマン初めて演ったんですけど、それなりに最高やったんですけど、今ほどありがたみが思ってたかなと思うとそうでもなかった気がする。“当然よ”とかうぬぼれてはないんですけど。『Rokket size』を作ったときも演ったし、『Main Songs』でも演って。『Gathered』のときも(山口)富士夫と演ったかな。一番最後は阿久悠さんの詞で作った『Rock on Baby』のとき。それを演ってから21年も経って、ほんとに野音に戻ってこれる、自分たちのレコ発ライブを演れるちうのは夢みたいですね。また最高の出逢いが重なって野音で演れることになったし、ありがたみを今回はすごく感じてる」
取材・文:浅野保志(ぴあ) 撮影:島崎覚(ぴあ)
	
		
		レコ発スペシャル・ライブ
		シーナ&ロケッツ
		35thANNIVERSARY
		"ROKKET RIDE TOUR@野音"
		
		
	
	公演日:2014年9月13日(土)
	会場:日比谷野外大音楽堂
	会場/開演:16:30/17:30
	料金:全席自由 5,400円 
		(当日 6,000円)
	
	
	
シーナ&ロケッツ
元サンハウスの鮎川誠(g、vo)が妻・シーナ(vo)と結成し、1978年、シングル「涙のハイウェイ」でデビュー。一貫してストレートなロックンロールで音楽シーンに君臨し続けるロック・レジェンド。現在のメンバーは、鮎川、シーナ、奈良敏博(b)、川嶋一秀(ds)。2014年7月に6年ぶりのニュー・アルバム『ROKKET RIDE』をリリースし、レコ発ライブとして9月13日(土)に21年ぶりのワンマンとなる日比谷野外大音楽堂公演を敢行する。
★公式サイト http://www.rokkets.com/
「シーナ&ロケッツ」ぴあスペシャルインタビューのページです。2014年9月13日(土)日比谷野外大音楽堂で開催されるワンマンライブのチケット購入もこちらから!