――ヴァイオリニストを目指すきっかけとなったのがシゲティ、オイストラフの演奏会だそうですね。その思い出について聞かせてください。
ヨゼフ・シゲティ先生との最初の出会いは、1953年に行われた日本公演最後の日比谷公会堂でのコンサートの折でした。当日は皇室からのご来場があり、先生が休憩時間にご挨拶のため客席に来られた際、通り道の途中に座っていた少女の私に目をとめられ、頭をなでて下さいました。
当時、母は、私に海外からの一流演奏家のコンサートを出来る限り聴かせたいと、高価なチケットを1枚だけ買って、自分はホールの外で待ってまで、通わせてくれました。その日の演奏会後、「ヴァイオリンのおじさんが私の頭をなでてくれたの」と言ったそうです。
その後、3年間におよぶロシアへの留学から帰国し、それからニューヨークのジュリアード音楽院に留学中の1968年、現役を引退されスイスのモントルーに住んでおられた先生を訪ね、最晩年の5年間その教えを受ける事が出来ました。
ダビット・オイストラフとの出会いは、私が小学校1年の時に聴いた彼の演奏会でした。幼稚園の音楽教育で、ピアノかヴァイオリンをと言う事でたまたまヴァイオリンを始める事になったのですが、そのまま私の日常生活の一部となって続けていました。そんな折、まるで楽器が体の一部となって自由自在に響き渡わたるオイストラフの演奏を聴いて衝撃を受け「ソ連(現ロシア)に行けば私もあんな風に弾ける様になるんじゃないか」と思い、それからは絶対にソ連にヴァイオリンの勉強に行くと言うのが私の夢になりました。
――そして見事夢が叶い、日本人として初めて、旧ソ連の国立レニングラード音楽院へ留学されました。
ソ連にヴァイオリンの勉強に行きたいと言う夢が実現し、旧レニングラード音楽院(現サンクトペテルブルク)に留学のため横浜港から出発しました。
ナホトカまで3昼夜かけて船で行き、気車に乗り継ぎウラジオストックへ、シベリア大陸を飛行機で横断し現在では想像も出来ないほどの長旅の末レニングラードにたどり着きました。そこは、ネヴァ河沿いに広がる帝政ロシアの都で、エルミタージュ美術館、マリンスキー劇場など重厚壮大な街並みで、私が生まれ育った日本の家並み、町並みとは全くかけ離れた景色と風景でした。
音楽院の寮に入りましたが、そこには旧ソ連各地、東欧共産圏から選ばれ勉強している、民族や母国語の異なる5~6百人の生徒が一緒に生活していました。
共産圏以外の国、私の様な日本からの留学生は初めてでした。四人部屋、トイレは共同、台所もコンロが2台、といった風で、何もかも体験したことが無い不便な生活でした。電話もソ連国内でさえかけるのに困難な時代で、日本への手紙も返事が来るまで1か月以上かかりました。
ホームシックで泣いていると「汀子の涙で湖ができる」と、友人から詩的なロシア語で慰められました。それでも一度も日本に帰ろうとは思いませんでした。
今、思い出しても、当時はソビエト芸術の黄金時代で、音楽院で受けた教育は何と贅沢で素晴らしいものだったのでしょう。音楽界には、ヴァイオリニストはオイストラフをはじめコーガン、クリモフ、ピアノはリヒテル、オボーリン、ギレリス、チェロではロストロポーヴィッチ達がキラ星のごとく活躍してました。中でも印象に強く残っている演奏会は、ムラヴィンスキー指揮のレニングラード・フィルによるチャイコフスキーの「悲愴交響曲」です。
それまで私が思っていた激しく、濃厚で感情的なチャイコフスキーの音楽の概念とは全く異なった、言葉では表現できない深く、心がゆさぶられる感動的な演奏でした。
また、ストラヴィンスキーが50年ぶりに生まれ故郷のレニングラードに戻り、自作の指揮をしたコンサートにも行きました。祖国の聴衆から熱狂的な歓迎で迎えられ、何度も何度もステージに呼び戻され、楽団員が去った後も拍手が鳴りやまず、オーバーを着て帽子をかぶり、ステッキを手にとぼとぼステージに現れた姿を2階のバルコニーの立ち見席からずっと見続けていました。
――これまで数多くの演奏家と共演されてきました。特に思い出深い方はいらっしゃいますか?
数多くの共演者に恵まれ、それぞれへの思いは尽きませんが、50周年を記念してソニーが、今までのレコーディングの中から選曲した2枚組CDを4月末に出して下さる事になっており、今回それらを改めて聴き直してみると、ピアニストのクリストフ・エッシェンバッハと共演したベートーヴェンの「スプリング」「クロイツェル」、モーツァルトのソナタ集を通して彼の卓越した音楽性に感動しています。
――50周年を記念したコンサート。今回のプログラムの聴きどころとは?
レパートリーの中からいろいろな時代、さまざまな国の作曲家の作品から、聴いていただきたい曲を選んでプログラムを構成しています。 ここ横浜からモジャイスキー号で留学したロシア、そのロシアを代表する作曲家チャイコフスキーのコンチェルトをぜひ横浜で演奏し、聴いていただきたいと思いました。チャイコフスキーらしい叙情的かつ憂いのある主題、そして3楽章中間部に挿入されたロシア舞曲風のメロディーなど。
――50年を経ても、演奏家として第一線で活躍されています。その原動力は何でしょう?
一番は健康に恵まれた事でしょう。体力も気力も共に充実している事が、演奏活動には必要だと思います。ですから当たり前の事ですが、日々の体調管理を心掛けています、食事、睡眠、休養など。とは言っても、演奏旅行とかコンサートの合間合間とか、日常の生活が不規則になりがちなので、自分なりに日々バランスボールを使って筋力の柔軟性を保つとか、時間のある時は、ジムでトレーナーの指導を受けて体力の低下を少しでも補えるようにと、心がけています。なかなか思う様にはいきませんが。
――では、最後に今後の抱負を教えてください。
自分なりの日々の積み重ねで一日でも長く弾き続ける事が出来たらと願っています。
(c)篠山紀信
シゲティ先生と
子供の時
ソ連に旅立つ船上
クリストフ・エッシェバッハとレコーディングのチェックを
●前橋汀子 Mehashi Teiko -violin-
日本を代表する国際的ヴァイオリニストとして、その演奏は優雅さと円熟味にあふれ、多くの徴収を魅了してやまない。国内外で活発な演奏活動を展開し、これまでにベルリン・フィル、ロイヤル・フィル、フランス国立管、クリーブランド管、イスラエル・フィル、メータ、ロストロポーヴィチ、サヴァリッシュ、マズア、小澤征爾など世界第一線で活躍するオーケストラや指揮者との共演を重ねている。
近年、小品を中心とした親しみやすいプログラムによるリサイタルを全国各地で展開、2005年から年一回サントリーホールで開催している本公演は大好評を博している。
一方、2007年にはヴァイオリン音楽の原点ともいえるJ.S.バッハの「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ&パルティータ」全曲演奏会、2008-9年のシーズンには、2夜にわたるベートーヴェン・ソナタ全曲演奏会を行うなど、本格的なプログラムにも積極的に取り組む。2008年秋にはミラノ弦楽合奏団と日本ツアーを行い、円熟した演奏を聴かせた。
2004年日本芸術院賞、2007年第37回エクソンモービル音楽賞洋楽部門本賞受賞。2011年春の紫綬褒章受賞。