日本でポドルスキを観られる幸福


日本でポドルスキを観られる幸福
日本でボドルスキを観られる幸福

文:木崎伸也

ルーカス・ポドルスキのまわりは、常に笑顔で溢れている。
2014年『W杯』に向けて、ドイツ代表が南チロルで合宿をしている時のことだ。ポドルスキはプールサイドでスポーツビルト誌のインタビューを受けた後、突然仲のいいファルク記者を抱きかかえると、プールに投げ入れてしまった。これでファルク記者の携帯電話はオシャカに。周囲にいた記者たちから拍手喝采が起こる中、ポドルスキは投げキッスをしながら戻って行った。

ドイツ語でいたずら好きのひょうきん者を「Spaßvogel」(シュパッスフォーゲル)という。まさにポドルスキは、その言葉通りのキャラクターだ。真面目な表情をしている時はクールに見えるが、内面はやさしさに溢れており、常に人を笑顔にしようとする。
2014年『W杯』の開催地・ブラジルに到着すると、ポドルスキが真っ先にインスタグラムに投稿したのは、腕組みをした5人の軍人の間にエジルとともにシリアスな顔で立っている写真だった。添えられたメッセージは「We're safe here」。ドイツ代表が完全警備されて、安全の心配がないことをユーモラスに伝えた。
ポドルスキのいたずらの名パートナーが、同世代の大親友・シュバインシュタイガーである。
ポドルスキがシュバインシュタイガーの飛行機移動中の寝顔をフェイスブックに投稿すると、今度はシュバインシュタイガーがホテルの庭で昼寝するポドルスキの写真を投稿してリベンジ。「ポルディ、もう24万の『いいね!』がついてるぜ!」。『ブラジルW杯』中、ふたりのSNS上の戦いが選手たちのガス抜きになった。
ポドルスキのサービス精神は、チーム内に留まらない。ブラジルの民族衣装を着た踊り子たちがドイツ代表の宿泊地を訪れた時、ポドルスキは率先して一緒に踊った。それが現地のテレビに流れて、ブラジルでも人気者になった。また、ブラジルの人気クラブ・フラメンゴのユニフォームを着てメディアの前に現れ、さらにブラジル人の心を掴んだ。

2014年『W杯』で、ドイツはアルゼンチンを延長戦の末に破り、悲願の優勝を成し遂げた。2004年から代表でプレーし続けたポドルスキにとって、“10年目の正直”である。決勝後、ポドルスキがシュバインシュタイガーと肩を組みながら受けたテレビインタビューは、のちに“伝説のインタビュー”と言われるようになった。
「10年前、俺たちはU21から一緒に車でA代表に向かった。その10年後に『W杯』決勝の舞台に一緒にいて、優勝を成し遂げた。俺たちは世界一を目指して、ボールを蹴り続けてきた。すべての人、ファン、そしてチームメイトに感謝したい」

ポドルスキは2014年『W杯』において、レギュラーだったわけではない。グループステージの2試合に出場しただけだ。だが、チームに一体感を生む上で、果たした役割は計り知れない。
30歳を越え、ユーロ2016ではポドルスキはもう必要ないのではないかという声がメディアからあがった。その時レーブ監督は、はっきりと反論した。
「彼はチームに多くのものを与えてくれる。チームにとって一体感はとても重要だ。ピッチ内のパフォーマンスと同時に、ピッチ外で何をもたらせられるかは、選手にとってとても重要な能力だ」
もちろんレーブ監督は、選手としての能力もきちんと評価している。
「ポドルスキは所属クラブで出番を失っている時でも、代表の重要な試合で結果を残し続けてきた。彼はペナルティボックス内から強烈なシュートを放って、ゴールを決められる。これはほかの選手にはない能力だ」
ポドルスキはドイツで育成改革が始まる前の最後の世代と言われている。つまり、ストリートサッカーで育った世代だ。テクニックは荒削りだが、密集地帯に強く、しぶとさがある。
今年3月、ドイツ×イングランドが、ポドルスキにとっての代表引退試合となった。キャプテンマークを巻いて先発すると、左足から豪快なミドルシュートを決めて観客の度肝を抜いた。最後までレーブの評価が間違ってなかったことを証明したのだ。

ただし、ポーランド生まれの移民系選手のため、差別がなかったわけではない。
2005年、ポドルスキが「ケルンの王子様」として人気が急上昇している時、国営ラジオであるコメディアンが「ルーカスの日記」という番組をスタートさせた。
ポドルスキは2歳までポーランドに住んでいたため、ドイツ語に独特の訛りがある。その喋り方を真似して、コメディアンがポドルスキになりすましてサッカーの話題をネタにしたのだ。
ポドルスキは看過せず、裁判所に訴えた。だが、番組中止の判決が出なかったため、2006年『W杯』の大会中、国営放送のテレビインタビューをボイコットし続けた。
また、同じポーランド系のクローゼと、ピッチでは何語で話しているかを聞かれた時にはこう切り返した。
「ポーランド語、ドイツ語、そして身振り手振り。大事なのは言葉じゃないよ。メインテーマは自分に来たパスをゴールに入れることだ」
差別には毅然とした態度を示し、無意識の差別に対してはユーモアを交えて相手に気づかせる──ただのお調子者ではない。

プロとしてのキャリアでも、大きな壁にぶつかったことがある。
2006年夏、ケルンからバイエルンに移籍したものの、マガト監督に評価されず、控えに甘んじてしまう。シーズン途中から名将ヒッツフェルトが指揮を取ったが、ポドルスキはケガに泣かされた。2007-2008シーズンはトニ、リベリ、クローゼの加入によってさらに競争が激しくなり、さらに苦しい立場に追い込まれた。
当時22歳。シュツットガルトのゴメス(現ヴォルフスブルク)の台頭もあって、代表でのFWのレギュラーの座も危うくなった。
だが、ポドルスキの最大の能力は、思考の柔軟さにある。
2008年『ユーロ』の開幕前、レーブ監督はポドルスキに「4-4-2の左MFでプレーできるか?」と打診してきた。左MFでのプレーを受け入れると、開幕のポーランド戦ではいきなり2ゴールをあげた。両親の母国へのリスペクトで一切ゴールパフォーマンスをしなかったが、大舞台に強いという印象を勝ち取った。
決勝トーナメントに入ってシステムが4-2-3-1に変わっても、ポドルスキは左MFでプレーし続け、ポルトガル戦とトルコ戦で連続アシスト。大会優秀選手に選ばれた。
代表デビューして間もなかった2004年『ユーロ』を除いて、2006年『W杯』から2016年『ユーロ』までの6大会で、ポドルスキはシュバインシュタイガーとともに常にベスト4以上の結果を残してきた。人気・実力ともに、正真正銘のドイツ代表のレジェンドと言っていい。

それだけのスターが日本に行くのだから、ドイツでは「日本の人たちにポドルスキの価値をわかってもらえるのか」と心配する声もある。だが、結論から言えば、心配はまったくいらないだろう。シュバインシュタイガーはポドルスキの代表引退試合の時、「ポルディへの手紙」と題してヴェルト紙に次の文を寄稿した。
「君のポジティブなオーラ、オープンな姿勢、そして真似のできない左足によって、僕だけでなく、ドイツの人、イングランドの人、トルコの人たちを感動させてきた。だからまったく心配していない。君が日本の人たちをポルディファンに変えることを」
これからの2年半、ポドルスキにとって、日本のサッカーファンにとって、忘れることのできない幸せな時間になるはずだ。

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