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JAPANサッカーを支える企業
 
株式会社スポーツ21エンタープライズ 代表取締役 三ッ谷洋子
1984年からスタートした「スポーツ21・マーケティング研究会」は384回を数え、うち65回はサッカーをテーマにした研究会を実施。サッカー界だけではなく、スポーツ界全体に貢献しているスポーツ21エンタープライズ。自らもJリーグの理事をJ創設より務めており、女性社長ならではの目から見たサッカー支援の話を伺った。
株式会社スポーツ21エンタープライズ 代表取締役 三ッ谷洋子
   

——「株式会社スポーツ21エンタープライズ」設立のきっかけから教えてください。

「その前の、大学卒業のころのお話からでいいですか。中学生の時にNHKで『事件記者』というテレビ番組をやっていて、新聞記者の仕事がすごく面白そうで、格好よく見えたんです。それで新聞記者を目指したのですが、雇用機会均等法ができる前で新聞社では女性は要らないといわれていた時代でした。

よく考えたら番組で登場していたのは男性ばかりで、女性記者はいない。そういう時代だったので、入社試験を受けるまでが大変でした。それはともかく何とか産経新聞に入りまして、試用期間が終わると男性は地方の支局に配属されます。支局は職住一緒のような感じで女性には無理といわれ、婦人面に行くか、と聞かれました。私は女性だからと決め付けられるのが嫌いなんです。女性だから婦人面、というのはちょっと…」


——それで、どうされたのですか。

「大学時代にテニスをやっていました。勝てない選手でしたが、負けた選手の気持ちはよくわかります、みたいなことをいってスポーツを希望しました。産経新聞社には産経新聞本紙とサンケイスポーツがあります。本紙の運動部には先輩の女性記者がいたので、サンスポに行くことになりました。

入社するまで、サンケイスポーツという新聞があるのも知りませんでした。別にスポーツが大好きだったわけではなく、これしかないというか、少し汗をかいた経験を記者として活かせるかなと。

3年ほど記者をやりました。結婚して子どもができましたが、スポーツの大会ってほとんど週末。土曜や日曜に仕事に出るのは結構、大変なんです。子どもを家に置いて仕事に行く環境ではなかったので、仕方なく会社を辞めました。その後、いろいろあって離婚しました。

書いて稼がなくてはいけないと、フリーランスのライターでしばらくやりました。フリーだと、オリンピックの取材にしてもIDカード(記者の身分証明書)をもらうまでにヘトヘトになって、それから勝った負けたの記事を書く。新聞記者と同じような土俵で同じような記事を書いて競争しても、意味がないと思いました」


——フリーランスのスポーツライターとしてやっていくのは大変だったわけですね。

「会社を作る前、物書きとして、フリーランスとして、どうやったら他の人より少しでも前に出られるかと考えました。最初は新聞でも雑誌でも何にでも書きまくりました。でも、3月15日の確定申告の時に、1年間の原稿料を足し算して必要経費を引いたら、高卒の女の子がそこそこの会社に入って貰う給料よりも低いんです。これがずっと10年間続いたとしたら、どうしようかと思いました。

まぁ、年は取るわけですから疲れてくるし、土・日曜に取材して休日返上して書いても原稿料が高くなるわけでもないし。薄利多売ではダメだということで、今度は人がやらないことをやって、希少価値を狙うことにしました」


——実際にはどんなことを。

「モスクワオリンピックが1980年に控えていました。あの頃、ソ連で取材をするのは簡単ではなかったのですが、たまたま私の友人のお父さんが日ソ貿易をしていた関係でコネがあり、そのツテでソ連の取材をしたわけです。

当時、日ソ対抗バレーなどでは日本は必ずソ連に負けた。記事としてまとめる時は、『やっぱり、ステートアマの国は違う』のような結論で逃げるわけですが、ステートアマというのはどういう仕組みで、実際はどうなってるのか誰も知らない。

『国家がバックアップしてるから強いよね』といっても、実際に調べてみたわけではない。そこで、人がまだやっていない、できない取材をしてみようと思いました。1978年12月です。2年後にオリンピックを迎えるソ連とか、社会主義で初めてのオリンピックというテーマで取材して書いたんです。昔のつながりのある産経新聞とか、サンケイスポーツ、あらゆるものに書きまくりました。ソ連では女性も働いていますから、そのあたりも取材して『クロワッサン』とかにもね。旅行雑誌や小学生新聞にも書きました」


——ずいぶん幅広く書かれたのですね。

「実際に取材して感じたのは、ソ連の仕組みというのはすごくよくできているということ。国のプロパカンダとしてのスポーツ。スポーツだけではなく芸術も。ソ連のバレエとか、音楽もやはり国のPR、宣伝マンみたいな意味がすごくあるんですね。

そういうことがわかったのでさらに書くと、『ソ連はもういいよ』と言われてしまったんです。『三ッ谷さん、向こうに行って洗脳されちゃったの?』とか、『赤になっちゃったの?』などといわれました。アメリカのことだったらいくらでも知りたいけど、ソ連のことはどうでもいい。1回聞いたらもういいよ、という感じでした。

原稿料も『他の人が取材してないことをお宅の雑誌のために書きました。書き下ろしですよ』と言っても、『これだけ?』っていいたくなるような金額なんです。編集部に電話して聞いてみると『新聞社の部長クラスにお支払いしている額です』というので、相場というものがあることを知りました。

まだ『ナンバー』は出ていませんでした。スポーツ関係の雑誌の原稿料がよくなったのは、1980年に『ナンバー』が出てからです。大手の出版社からスポーツ雑誌が発行されるようになって、初めて原稿料だけで生計を立てられるくらいの金額になりました。それ以前は新聞社の記者がアルバイトで書いてましたから、原稿料もアルバイト基準。ですからそれを生業としたら、夜寝ないで書いても人並みの生活は送れませんでした」


——なかなか大変でしたね。

「原稿料は十年一日のごとく上がらない。息子を抱えて毎日インスタントラーメンというわけにもいかないし。そこで必死に考えました。ちょうどその頃、スポーツに関心を持つ企業が、『この大会のスポンサーはどこか』『いくら出しているか』などという新聞記事を、専属の人を雇って切り抜きしていることを知りました。それこそ記事の裏側までスポーツと企業にかかわる情報を知りたいということのようでした。

私はスポーツ大会の取材で、舞台裏までいくことができます。スポーツのそういう部分に関心のある企業を対象に、情報を集めて加工して売った方が高く売れるんじゃないかと気付きました。ライターの場合には原稿という形ですが、商品の形を報告書とかリポートにすれば、原稿料よりもゼロが一つくらい多くなるんじゃないかと思ったわけです。

企業を対象にスポーツ情報を提供して、なおかつコンサルティングをする。『スポンサードされるなら、お宅の会社ならこういう大会がありますよ、こんな協力の仕方なんかどうでしょうか』と提案する。そういうことが商売になるのではないかと思って、1980年に手探りで始めました」


——当時はまだ、スポーツに関するコンサルティング会社というのはありませんでしたよね。

「アメリカではスポーツビジネスの関係者が集まるコンベンションがあるようなことはチラッと聞いたことがありましたが、日本では“スポーツビジネス”という言葉もなければ、コンサルタントとかマネジメント会社というのは、ほとんど聞いたことがなかったですね」


——さまざまなスポーツを扱われていますが、特にサッカーに対してはどのようなイメージをお持ちですか。

「“乞食から王様まで、子どもから大人までを熱狂させる最強のスポーツ”。乞食なんていう言葉はもう使いませんけれど、要するに階級にかかわりなく、本当に熱狂するスポーツ、それがサッカーだと思います。サッカーといえば、ヨーロッパでは労働者階級のスポーツですよね。

フランスワールドカップの時は、フランスでそれを強く感じました。フランスがどんどん勝ち上がってきて、子どもたちがテレビを見て『サッカーっておもしろいよ』と夢中になり、お父さんやお母さんも一緒に見るようになって、労働者階級ではない大人たちも見るようになった。そう聞きいていますが、そういう背景のあるスポーツですね。

それと手が使えないということが、あれだけ熱狂する要因になっているのではないでしょうか。人間の本能だとまず手を使いたいと思うわけですが、敢えて使えなくすることでなかなか点が入らない。1点の重みというのが、ものすごくありますよね。そういうスポーツは、他にはないと思います」


——ご自身のサッカーに関する経験、これまでサッカーについてされてきたことは?

「1970年代の初め、ポルトガルのベンフィカ・リスボンというチームが日本に来たことがあります。エウゼビオという有名な選手がいて、その記者会見場に、サッカー担当の先輩記者の助っ人として行って取材したのが、最初のサッカーとの関わりです。

それから、1977年に『ペレーさよならサッカー』というイベントがありました。この時はもうフリーでしたが。初めて電通がスポンサードして、グッズが予想以上に売れた画期的な大会でしたが、それを取材しました。記者とかジャーナリストとしては、この他、先ほど言いましたモスクワオリンピック前後に4、5回、ソ連とか東ドイツに行って、そこでサッカーのスタジアムやスポーツクラブを取材したぐらいです。

会社を作ってからは、『スポーツビジネスコンサルタント』という肩書きで、いろいろな仕事をやらせていただいています。まず、日本サッカー協会がJリーグを作る前に『アドバイザリーボード』という諮問機関を作ったんです。すでに博報堂と一緒にJリーグの大まかな青写真はできていましたが、それについて外部の意見を聞くということで、11人のアドバイザリーボードメンバーの1人に選ばれました。

それがJリーグとの最初のお付き合いです。奥寺(康彦)さんとか、サッカー狂会の会長さんとか、サッカー関係の人がほとんどで、それ以外は私と文部省の担当課長さんくらい。ここで、プロのリーグができるとしたらどんなことが必要かとか、プロスポーツのあるべき姿とかを聞かれ、私なりにいろいろ意見を述べました。オリンピックにも出ていない、ワールドカップにも出ていない日本が、なんでサッカーのプロリーグなんですかって感じでした。

それが90年の話。会社設立が80年ですから、それまでの10年間は何をしていたかというと、アメリカのスポーツに興味があり、何度か視察などに行っていました。草の根スポーツからチャンピオンスポーツまで。その中心が4大プロスポーツだということも、その時、初めて知り勉強もしました。
メジャーリーグ(野球)やNFL(アメリカンフットボール)、NBA(バスケットボール)など一種目に詳しい人はいましたが、4大プロスポーツとして見ている人はいませんでした。私はそれまで蓄積したものから、プロサッカーとして取り組んで欲しいことをいろいろ提案しました」


——日本のサッカー界にどういう提案をされたのですか。

「アメリカのプロスポーツビジネスのソフトの部分やハード、施設のお話もしました。例えば、トロントのスカイドームではトイレの数は女性用の方が多いんです。その理由は、女性の観客が多いからではなく、女性の場合は滞在時間が長い。用を足すだけでなく、お化粧を直したりするので回転率が悪い。そこまで考えて造られているんです。

サッカーがプロスポーツとしてスタートするなら、そこまでお客様のことを考えて欲しい。女性のこともそうですし、子ども連れや身体障害者の方についても。車椅子がスムーズに入れるようにするとか、そういうことも考えたらどうかと提案したら、川淵(三郎)さんから『そういうことは我々ではなかなか気が付かないから、Jリーグの理事になってどしどし意見を言ってください』といわれ、今日に至っています」


——その時、川淵さんのお立場は?

「プロリーグ検討委員会委員長です」


——それが80年代終わり?

「日本サッカー協会にプロリーグ検討委員会ができたのは1989年です。アマチュアの日本サッカーリーグ時代は、川淵さんは総務主事という肩書きの責任者で、そのままプロ化に向けての責任者となられました」


——アドバイザリーボード委員の中で、女性は三ッ谷さんだけですか。

「そうです。博報堂の方がサッカー協会に紹介してくださったんです。博報堂とはいろいろなお付き合いがありました。その前年、通産省サービス産業室の室長補佐だった平田(竹男)さんが、21世紀はスポーツの時代、スポーツが基幹産業になるということで、『スポーツ産業研究会』を作られ、私もその研究会の委員でした。博報堂の常務取締役だった方も委員でいらして、サッカーのことはそんなに詳しいわけではないけれども、スポーツ全般いろいろな意見が聞ける人だと、サッカー協会に紹介してくれたというわけです」


——平田さんというのは、後に日本サッカー協会の専務理事、今は名誉副会長の平田さんですね。

「ええ、その平田さんです」


——三ッ谷さんが、他に類のないスポーツコンサルタント業をそれまで10年間された実績ですね。

「多分そうだと思います。博報堂など広告代理店の方に私の名前が知られたのは、1980年10月9日に国際女性スポーツ会議というのを開催したからでしょうね。この会議に呼んだのは、東京オリンピックの金メダリスト・体操のチャスラフスカ(チェコ)、テニスのウインブルドンでチャンピオンになったヴァージニア・ウェード(英国)、陸上のエベリン・アシュフォード(アメリカ)など、7人のトップスポーツウーマンに“女性にとってスポーツとは”というテーマで話してもらうシンポジウムでした。私が企画し選手たちに声をかけて集まってもらったのですが、世界のトップ選手が出席するこのようなシンポジウムは、日本では初めてのことで、広告業界に注目されたイベントでした」


——Jリーグ誕生の瞬間は、そのド真ん中にいらしたわけですよね。

「そうですね。先ほど言いましたように、最初、私は“プロ化を本当にやるんですか?”という思いでした。アドバイザリーボードの会議は、東京プリンスホテルで行なわれました。こちら側にアドバイザリーボードのメンバー11人が並んで、反対側にサッカー協会の方が並んで。会議を2回やって、社団法人化されました」


——すごい勢いですね。

「社団法人化のセレモニーの鏡割りの写真に、私も写っているんですよ。まぁ、それは置いといて。プロ化してアントラーズが日本初のサッカー専用スタジアムを造ったりしてどんどん進んでいきました。ホント、あれよあれよという間に。でも、バブルがはじけた後ですから、『あと1年遅れていたら、Jリーグは無理だったね』と皆さん言ってますよね。

それでも設立当時、『Jリーグってスゴイね』と言われたのは、チーム名(呼称)に企業名を入れなかったことです。(株)三菱自動車フットボールクラブではなく“浦和レッズ”というように。『それが本当に素晴らしい』と、サッカーに関心のない人たちからもずいぶん言われました。

川淵チェアマンが掲げたJリーグの理念が実に素晴らしいですよね。最初、読んだ時に、これまた失礼ながら、『大の男がこのようなキレイ事を本気で言うのか』ってビックリしました。それが大真面目で。理念なんて、額にかけておくのが当たり前だと思っていました。それが、『理念に向かって行こーぜ!』のような雰囲気になっていて。有言実行そのままですから、傍から見ていてなかなかすごいなと思いました」


——そこで三ッ谷さんはどのようなことをされたのですか。

「Jリーグが開幕する前に、川淵さんや各クラブの社長さんを対象に『プロスポーツビジネスというのは、こういうものですよ』という勉強会、“トップマネージメントセミナー”を提案し、それが通りました。93年の秋から翌年、開幕年の3月まで、3本立てです。

Jリーグのビジネスモデルはまだ確立していませんでした。世界のサッカー界が今ほどビジネス化していない頃で、Jリーグも勉強が必要ではないかと思ったのです。

1回目は、大リーグやNFLの仕組みを勉強しました。2回目は、翌年の1月末。プロスポーツの本場・アメリカに行って、アメリカ最大のプロスポーツイベント、スーパーボウルを視察しました。決勝戦が行われるローズボウルは10万人収容のスタジアムで、94年のアメリカワールドカップの決勝戦の会場でもありました。プロスポーツ最大のスーパーボウルとは一体どのようなものなのか、ワールドカップの決勝会場がどんなところなのか、それを見てもらう。“百聞は一見にしかず”ですから。

ワールドカップ組織委員会のトップとミーティングもしましたし、施設も見学したりして。3回目は、それまでの見聞から得たものなどについてディスカッションをしました。3月でした。その2カ月後の5月がJリーグの開幕です」


——Jリーグ誕生に際して、さまざまな提案、企画をされたわけですね。

「川淵さんは、役立つことなら何でもしました。“いいとこ取り”とよく言っていました。人についてもそうで、役立つ人は誰でも引き入れました。普通だったら、私はサッカーを知ってるわけではないし、男性のプロリーグに何で女性が必要なのかとなります。女性から意見を聞こうなどと考えてもみないわけですが、役立つなら入ってもらおうと。

サッカー界はわりとオープンなところがあります。他のスポーツ団体ではあまりありませんね。やっぱりそのスポーツをやってきた方とか、関係者に限られています」


——現在、サッカーに関してされていることは?

「Jリーグの理事というのは、コンサルタントだろうが何だろうが立場はボランティアです。今は直接の仕事はありませんが、当社主催の“マーケティング研究会”で、サッカー、Jリーグ、ワールドカップといったテーマを取り上げています。

1984年、ロサンゼルスオリンピックの年に始めました。ロサンゼルスオリンピックは、初めて商業主義を導入した大会で、ピーター・ユベロスが税金を1セントも使わず、スポンサーを集めて、オリンピックを“金のなる木”にしました。

スポーツイベントがどのようにお金になるのか。その仕組みがどうなっていて、スポンサードにはどんな種類があり、企業はどのように取り組んでいるのか、などいろいろなテーマを取り上げました。

同じ種目はその1年間は絶対にやらない、同じ講師は絶対に呼ばないと決めてずっとやってきました。そのうちバブルがはじけてスポーツ業界は縮小してしまいました。そうした中で企業の方々が興味を持つのは、現在、注目されているスポーツだけ。以前のようにマイナースポーツでもユニークな取組をしているものなどには、皆さん興味を持ってくれなくなりました。

関心があるのは、ワールドカップとか、サッカー。サッカーが続いてしまっています。私としては『“サッカー”マーケティング研究会』ではないと思うんですが、やはり伸びようとしている、あるいは目の前に可能性が見えるものでないと、企業の方が関心を持ちません。ですから、皆さんが関心のあるテーマだったら、何回続けてもいいのかなと思うようになりました。

現在、2本立てで“実戦ゼミ”と“例会”をやっています。この3月末まで、合わせて384回。そのうちサッカー関係は65回やりました」


——それだけ、今はサッカーが日本のプロスポーツの中心ということですね。

「1強多弱のようになっていますね。私としては、そのスポーツに関わる企業の方にしっ かり背景を知っていただき、良い提案をして、その仕事がスポーツの発展につながって欲しいと願っています。

当社の企業理念といいますか、私が大切にしていることは、仕事がスポーツの発展につながること。その場限りで、儲かればいいという仕事はやりたくない。スポーツはそんなに儲からないものです。チームを作るのと同じで、種をまいて水をあげて育てていかないと。1つのパイを食い合ったら、それでおしまいですから」


——Jリーグでずっと理事をされているのは三ッ谷さんだけですか。

「もう最古参です」


——サッカーと関わってきて、企業として得たことは。

「企業としての社会的信用が得られました。スポーツ産業の一角を占めるようになった“サッカービジネス”の国内外の現状について、詳細な情報と人脈を得ることができたのも、大きな財産ですね。また、マイナースポーツが、メジャースポーツになる過程を、つぶさに一番近くで観察することができたのも貴重な体験です」


——これからの取組み、予定されていることは。

「マーケティング研究会は25年目を迎えました。テーマとして『Jリーグとサッカー日本代表チームのマーチャンダイジング戦略』。秋冬新商品受注会も視察するという内容です。それから『JFAこころのプロジェクト』を実施している小学校の視察、『浦和レッズの世界を目指す経営』などを取り上げる予定です。

それと、『日本のサッカー文化を育てる会』。プライベートなクラブですが、秋くらいに設立したいと考えています。元Jリーガーの話なども聞いて、日本のサッカー文化を育て、ますます発展させていければと願っています」


——サッカー界に望まれること、提言などございましたら。

「世界最強、日本最強の組織力を誇るサッカーは独善的にならないよう、常に“スポーツ全体”を意識して活動に取り組んで欲しいと思います。それから組織の中枢部に積極的に女性を登用して、なでしこリーグも一層、支援して欲しいですね」


——最後に、日本サッカー界、選手、ファンへの熱き応援メッセージをお願いします。

「“日本サッカー協会”、“Jリーグ”は日本のスポーツ業界を代表するリーディングカンパニーの一つと言っても過言ではないと思います。Jリーグができ、サッカーだけではなく日本のスポーツ環境はかつてないほど大きく変わってきました。それを支えているクラブや選手、ファンの皆さんは、日本のスポーツをリードしているという自負と誇りを持って、“Jリーグ百年構想”の実現に向けて、長く楽しくサッカーに関わっていきましょう!」


取材・構成:宮崎俊哉(CREW) 撮影:新関雅士

 

【企業概要】
株式会社スポーツ21エンタープライズ

事業内容:スポーツビジネスのシンクタンク。コンサルティング、マーケティング、調査研究事業など手がける。最近は、「スポーツによる地域づくり」「スポーツ産業に関わる調査研究」の依頼が増えている。「マーケティング研究会」は今期で25年目。
設立:1980年3月
所在地:東京都世田谷区千歳台1−41−19
URL:http://www.sports-21.com
blog:http://blog.goo.ne.jp/sports328
 

『オリンピアンと遊ぼう!』
当社はサッカーだけでなく、スポーツ産業の活性化を目的とした調査研究事業や、スポーツを活用した様々な事業も手掛けています。昨年度は、文部科学省が「放課後活動支援モデル事業」として(財)日本ゲートボール連合に委託した『オリンピアンと遊ぼう!』という事業の評価を担当しました。子どもたちがオリンピアンと一緒にゲームをしたり、体験談を聞いたりして交流する様子を視察し、関係者へのヒアリングや子どもたちと保護者を対象としたアンケート調査を行いました。保護者の97.2%から「良い事業」との回答が得られ、一般の方々のオリンピアンへの好感度の高さを再認識しました。
 
この取材は2008年4月に行われました