——スポーツ支援に対する基本的な考え方から教えていただけますか。
「うちは自動車会社ですから、もともとは“モノづくりを通じて、より良い社会づくりに貢献する”というのが社是となっていて、スポーツ振興も社会貢献への取り組みのひとつとしてあります。今回はサッカーのお話ですが、もちろんサッカーだけでなく他のスポーツの支援もいろいろやらせていただいています。やっぱりスポーツというのは、国境を越えて、いろいろなところでやられているということもありますから。特に、このトヨタカップ、FIFAクラブワールドカップというのはグローバルな観点から見たら凄い大会ですし。全体的には、スポーツというのは企業にとって社会貢献の一環です。スポーツを通じて、子どもたちも含めて、当社が社会に貢献できればと考えているわけです。『健全な精神は健全な肉体に宿る』と言いますが、まさにそれです」
——お話にもありましたが、サッカー以外にも野球ですとかラグビーですとか、いろいろなスポーツを幅広く支援されてこられたなかで、特にサッカーという競技に対してはどのようなイメージをお持ちでしょうか。
「サッカーというのは国際性があり、誰でも楽しめる素晴らしいスポーツだと思いますが、実はサッカーを選んで支援してきたというよりも、“この大会だった”からというのがきっかけなんです。インターコンチネンタルカップがスタートしたのが1960年。ヨーロッパリーグのチャンピオンと南米リーグのチャンピオンがホーム&アウェー方式で戦うようになったわけです。でも、暴動があった関係で80年には中断状態となっており、大会側としては中立国での開催場所を探していました。そして1981年、そこからトヨタカップが始まりました。ちょうどそのとき、トヨタ自動車としてもトヨタ自工とトヨタ自販が一緒になって新しい会社に生まれ変わろうとしていました。トヨタ自動車としての設立は1982年の7月で、トヨタカップはその前年から動き始めました。そういったタイミングで、企業としての認知度もグローバルに上げていきたいとなったわけです。ヨーロッパと南米のチームの対戦ですけども、それ以外の国や地域だって試合は観るだろうと。テレビがドンドン放映するようになって、実際今では180数カ国に広がっているわけですし。そうなれば、当社にとってのメリットもあったんです。ここまでうまくこれましたが、始めた当時は国際試合だからといっても日本では知られていないチーム同士ですし、有名な選手はいなかったですから」
——今とは状況は全然違いますからね。
「ホントそうです。今みたいにプレミアリーグやセリエAの試合をテレビで観たりすることはできませんでした。知らない人たちにとってみれば、“何やってるんだろう”みたいな状態でした。チケットもなかなか売れなくて。しかし、それでも続けてきたら、Jリーグが発足して、それから日本の選手も海外でも活躍し始めて、それとともにようやくトヨタカップも凄くメジャーな大会になってきました。実は、試合自体は何も変わってないんですけど。我々としても、メジャーになってきたという感じはありますし、逆によく言ってもらえることは、“トヨタカップがあったから、Jリーグや日本の選手たちが育ってきた”。それは僕らとしては、本当にありがたいことです」
——みなさんも誇りをお持ちでしょう。
「大会をずっと続けてきた。振り返れば、1981年度から20年間以上ずっと続けてこれたというのは僕らにとっては誇りですし、何よりも嬉しいことです」
——今、Jリーグで活躍している選手も子どものときにトヨタカップで本場の試合、プレーを観たという方が多いですから。
「本当にそうです。今でも選手や関係者の方をご招待しているんですが、それでもチケットを買われて一般のお席で観られる人もいっぱいおります」
——本気の試合が、ナマで観られるというのは凄いことですから。
「本当にそうです。それが、今は日本のチームが出場して戦っているんですから。昨年の浦和レッズといい、今年のガンバ大阪といい。あのマンチェスター・ユナイテッドと試合する可能性も高いわけで、凄いことです」
——会社的にちょうといいタイミングだったということですが、きっかけは?
「その合併、新生トヨタ自動車に向けて、当社としてもいろいろコンテンツを探しいてたときではあったんです。ちょうどそのときお話をいただけて。当時、日本では今のように凄く大きな大会という位置付けではなかったんです。知名度からいっても。ただ、トヨタ自動車としてはグローバルに育っていこうという時代だった。そういう意味では、当社にとってもやっぱり良かったです」
——海外では注目されていましたが。
「当初は日本よりも海外で有名だったでしょう。ヨーロッパの人や南米の人にとってみれば、この試合が日本で行われるというのは、たぶんもうその当時からずっと知られていたと思います」
——続けてこられたなかで、ご苦労というのは?
「苦労というか、当社は運営に直接携わっていないのです。スポンサードということでお金はかかりましたが、でもそれなりの価値はあったハズです。それと、社内ではやっぱりみんながこの時期になると“トヨタカップが始まるね”という感じで。社員の中でも、ちゃんと行事みたいになってますから」
——このインタビュー・シリーズでは、サッカーを支援するようになって得た会社としてのメリットを伺っています。御社の場合、“トヨタ”という名前を知らない人は日本にはいないですから、この大会で知名度が上がったということはないと思うんですが、今のお話のように社内的に盛り上がってきたわけですね。
「それもそうですし、続けてきたことによって、クラブワールドカップとなった今でも“トヨタカップ”と呼んでもらえたりするんです。12月になったら、“トヨタカップがあるね”と。先程Jリーガーのお話がありましたが、Jリーガーになった人たちだけでなく、トヨタカップを観て育った人というのはいっぱいいるんです。そういう意味では、その人たちのなかでトヨタという企業に親しみを持ってもらえている。スポーツの大会そのものに大きい小さいはあるけれども、この大会は凄く特別なものだなという気はしています。我々にとっても、ずっとそれを観てきたお客さんにとっても」
——もう12月の風物詩ですよね、忠臣蔵かトヨタカップか。
「僕らはそう思っています。毎年ずっと、必ず観に来られている方もいらっしゃるじゃないですか。お父さんと一緒に来ていて、今は自分の子どもと一緒にと」
——トヨタカップで思い出に残っている試合というのは?
「今でも思い出すのは、雪の中での試合(1987年12月13日、FCポルト・ポルトガル 2-1 ペニャロール・ウルグアイ)。いや、よくあのような雪の中で試合が出来たとおもいます。南米のチームは、雪を見たことがない選手もいたでしょうに。これが一番記憶に残っているし、印象にもあります」
——この試合のお話をされる方は多いですね。
「今はもう雪が積もる心配はしないですね。本当に、温暖化してきたなという気がします」
——選手で、特に記憶に残っているのは?
「ミシェル・プラティニ(元フランス代表、現UEFA会長)ですかね。今FIFAの役員をしていらっしゃる。プラティニを観たときは、凄くドキドキしました。今、お会いしても。憧れの目で観ていた選手ですから」
——あのときのゴール(1985年12月8日、ユベントス・イタリア 2(PK4-2)2 アルヘンチノス・ジュニアーズ・アルゼンチンでのオフサイドとなった伝説のゴール) も。
「そうですね。入ったと思いましたが」
——ほとんどの試合を観戦されているんですか?
「そんなことはないですけど。僕もいろいろと部署を変えたりもしていますので。宣伝部に来て12年目ですけど、担当部署としては関わってはいます。それでも、他の部署にいたときもやっぱりトヨタカップというのは、営業の方だったんですけど、全国の販売店さんも含めて大事な行事になってますから。試合当日もうちの関係者というか、販売店の関係者の方も来られますし。ただ最初の頃は観客は少なかったんです」
——そういう時代があったんですね。
「ありました。スタンドがまばらで。自分のところで言えば、販売店さんがお客さんにプレミアムとしてチケットを差し上げたりしたんですけど、“いらないよ”って言われたりして。“サッカーは行かない”とか。そういう時代もありました」
——今では信じられないような話ですよね。
「そうでしょうね。それでも、スタジアムに足を運んでくれて、毎年販売店さんからもらったチケットで観に行かれている方もいます。この時期になると、ちゃんとチケットを持っていかないと叱られてしまうお客さんもいらっしゃいますから」
——ずっと続けてこられたからだと思いますが、日本でもサッカーが文化として根づいてきたとお感じになりますか?
「僕らとしても、そうなってきて欲しいと思います。ですので、世の中の人がどう思ってくださるかが気になります。幸いなことに、この大会も悪いことは何も聞かないですし。日本でこれだけずっとやってきましたけど、事故も何もない。そういう意味で、選手だけでなく観る人たちも育ってきたと思います。凄くマナーがいいと思います。ヨーロッパだと、サッカーの試合中に何か起こったりするときもあります。それが、日本では全然ない。本当に凄くいい大会だと思っています」
——サッカー界への提案、提言などありましたら。
「とんでもない。ただ、もうずっと続いて欲しいというだけです。どんなに有名な選手でも、先ほどのプラティニじゃないですけが、やっぱりどこかでリタイアしていって、ドンドン若い選手も出てくる。それは、この大会だけでなく、もちろんそれぞれのリーグでも同じことです。アジアチャンピオンズリーグもそうです。日本のJリーグのチームが優勝するようになって、浦和レッズとガンバ大阪がこの大会に出てくるようになって、凄く身近なものになってきてます。自分たちが応援しているチームがアジアの王者、この広いアジアの王者になるというのは凄いし、“日本のサッカーは強いんだよね”っていうことになるわけです。ヨーロッパや南米のチームなんて、手が届かないところかなと思っていたのが、真剣勝負で試合ができるようになったわけですから」
——親善試合ではなく、真剣勝負というところですね。
「そう、真剣勝負の試合ができる。そこが嬉しいし、それをやらせてもらっている僕らにとっても凄く嬉しいです。それと、クラブワールドカップになって初めて豊田スタジアムで試合(2005年12月12日デポルティーボ・サプリカ・コスタリカ 1-0 シドニーFC・オーストラリア) をしたとき、日本人選手として最初にピッチを踏んだのはシドニーFCにいたカズ(三浦知良、横浜FC)選手です。それもまた凄く、こう考え深いものがあります。J リーグの立ち上げからずっとひっぱってきたカズ選手が、日本人として初めてトヨタカップの、ピッチに立った。そのときは鳥肌がたつぐらい嬉しかったです。あのときはまだ日本のチームが出られなくて、次の年から開催枠をなんとか作ってもらいましたが、今は2年連続で使わないでよくなった。アジアで優勝して、チャンピオンとして出られるって素晴らしい。これも凄いことです」
——Jリーグがスタートして、紆余曲折はあったかもしれませんが、日本のサッカー文化というのはそうやって育ってきているんですね。
「Jリーグは、川淵(三郎、J リーグ初代チェアマン) さんがいい作り方をされました。企業が全面に出るわけではなく、地域密着というのが良い部分かと思います。応援する人は、そこの市民や県民なんですから」
——最後にサッカー界、選手、ファンに向けて、サッカー文化のリーダーとして熱き応援メッセージをいただきたいのですが。
「我々もここまで続けさせてもらってきて、今年でひと区切りついて、来年、再来年はこの大会もUAEに行くことになりますが、またその次は帰ってくることも決まっているんです。何といっても、日本でずっと続けてきた大きな大会なものですから、今年以降もみんな楽しみにしていただきたいと思います。そして、出場する選手たちを応援しながら、観る人たちもやっぱり非常にいいマナーで観てもらって。それを自分の息子たちや娘たちに伝えていって欲しいと思います。これからもずっとおもしろい、いい試合を観れることを楽しみにしています」
取材・文:宮崎俊哉(CREW) 撮影:新関雅士 |