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JAPANサッカーを支える企業
 
読売新聞東京本社 五輪・サッカー推進事務局部長 塩見要次郎
第1回TOYOTAカップから出場チームの現地に記者を派遣し取材をするなど、メディアという立場から長年に渡り日本のスポーツを支えてきた、読売新聞。企業による「スポーツ支援」の歴史は日本一長く、サッカーをメジャースポーツへ転換させた情熱を記者経験もある塩見氏に語っていただいた。
読売新聞東京本社 五輪・サッカー推進事務局部長 塩見要次郎
   

——企業による“スポーツ支援”ということでは日本で一番長い歴史をお持ちだと思いますが、スポーツ支援をされてきた御社の基本的な考え方を教えてください。

「我が社とスポーツと言えば、まずは御存知のように読売巨人軍というプロ野球チーム。今でこそ読売新聞も有名になりましたが、大昔は九州あたりへ行くと“何て読むんだ?”などと言われたりして。そうかと思えば、“巨人は新聞も発行しているのか”なんてことも、言われてそうです。東京育ちの僕も、“巨人って、読売新聞と同じところがやってるんだ”とわかったのは、中学3年生くらい。“巨人”という名前の方が圧倒的に有名でしたからね。それだけ凄いスーパーパワーを持っている球団を抱えている会社ということなんです。要するに、朝日新聞さんはアマチュアスポーツを重視して高校野球であったりとか、オリンピックなどを支えてきて、アマチュアリズムを支えてきた会社。それに対して、我が社はちょっと違う立場でプロのスポーツを支えてきました。スポーツが発展するにあたっては、プロ化も必要だろう。冠大会などで企業名を目立たせることも必要だろうという考え方で長いことやってきた。だから、原点からスポーツと企業活動の融合ととらえてきた会社なんです」


——スポーツと企業活動の“融合”というのは、このシリーズで初めて伺いましたが、支援からさらに一歩進んでということでしょうか?

「そうですね。スポーツを支援するというレベルではなく、もっと深い係わり。そういった意味で野球だけではなく、近年はJOC 日本オリンピック委員会のスポンサーになったり、TOYOTA プレゼンツ FIFAクラブワールドカップなども支援していますが、少年サッカーの大会を主催したり、全国高校サッカー選手権も後援するなど、いろいろなところでスポーツに関してできるだけ貢献したいと思っています。もちろん、スポーツを重要視している新聞社というイメージを高めることによって、読者をさらに獲得していく。現在の1000万部を維持をするための大きな力にしたい。そういった考えに基づいて、我が社はスポーツと係わっているというわけです」


——“読売=野球”というイメージも長年強くあったと思いますが、そうしたなかでサッカーと係わるようになられた。サッカーという競技に対して、どのようなイメージをお持ちですか?

「古い話になりますけど、1969年、正力松太郎がサッカーもプロ化するために力を貸しましょうということで読売サッカークラブというプロチームを作った。読売ランドという土地もありましたので、それを利用して。最初はなかなか勝てず、日本リーグの2部とか下の方で苦労していましたが、サッカーも世界に向けてプロ化が必要だということを宣言したわけです。日本テレビさんと協力してやりましたが」


——日本リーグで優勝を重ねるようなチームになりました。

「Jリーグが発足する前、根本的に日本でプロサッカーが成り立つのかという問題がありましたよね。でも、読売クラブと日産自動車、2つのプロチームがJSL日本サッカーリーグを支えて、これならプロ化できるとなったわけです。天皇杯の決勝ともなれば、国立競技場に5万人集めたんですから。日本のサッカーのプロ化については、この二つの企業、読売新聞と日産自動車が大きな力を発揮したと思っています」


——ヴェルディがスタートしてもう40年ですね。

「サッカーにおいて、我が社が非常に古くから力を入れてきたということをよりアピールしたいですね」


——TOYOTA プレゼンツ FIFAクラブワールドカップを協賛されるようになったきっかけは?

「スポーツとメディアの世界において非常に大きなニュースとなったのが、2002年日韓ワールドカップを朝日新聞さんが協賛したことでした。つまり、プロのスポーツの大会にメディアが協賛会社として入るなどということはこれまでなかったことなので、“いったいこれはどういうことなんだ”と毎日新聞さんなんかは批判の記事も書かれましたし、私も当時は記者だったので疑問を持って記事を書きました。でも、そこから世の中のメディアとスポーツの関係が大きく変わってきたんです。メディアとして21世紀は一歩進んでスポーツを支える、スポーツをコンテンツとして持つということが必要になってくる。そういう時代になるだろうなという動きがあり、我が社もJOCのパートナーになった。朝日新聞さんのあと、日本経済新聞さんもサッカーワールドカップを協賛された。そんな感じでメディアが大会の直接支援、直接の協賛会社になるということが始まってきましたが、そうした流れのなかで、TOYOTA プレゼンツ FIFAクラブワールドカップを協賛することになりました」


——具体的にはいつから?

「TOYOTA プレゼンツ FIFAクラブワールドカップの前身であるTOYOTAカップ。1981年2月11日に始まったこの大会に、読売新聞は後援としての名前は入っていませんが、日本テレビが放送するということで協力したわけです。第1回大会から必ず記者が事前取材に行ってまして。当時は南米とヨーロッパの2チームしかありませんが、僕も88年にウルグアイ、91年にユーゴスラビア、92年にバルセロナと3回行きましたよ。直接、世界のトッププロの選手に取材して、そのチームの実情や熱烈な地元ファンの存在などの記事を書く。そんな感じで深くTOYOTAカップとは関わってきました。それがなくなるというか発展的にTOYOTA プレゼンツ FIFAクラブワールドカップになったことで、当然協賛すべきだという意見もありましたが、いろいろな経緯があって、2005年の第1回の協賛はしていなくて、2006年からやっぱりやるべきだということで協賛しました。号外を配るなど、様々な活動をしてきました」


——最初から係わってこられたんですね。

「そうですね。やはり日本のサッカーというのは、ひとつは今言ったように日本のトッププロ、我が社の関係で言えば読売サッカークラブ。もうひとつは世界の一流を観せてあげようというのでTOYOTAカップ、今のTOYOTA プレゼンツ FIFAクラブワールドカップ。そして、底辺を支えようというのが少年サッカーであり、高校野球に対抗する高校サッカーなんですが、その全ての面で係わっていくんだということでやってきました。まぁ、一番華やかな日本代表に関しては朝日新聞さんがやっておられるので直接的な協賛みたいなことはできませんが、報道の面においてはもちろんそれが最大のターゲットなので、記者がいい記事を書くとことによって支えているわけです」


——今、日本にもサッカー文化というものが少しずつ根付いてきていると思いますが、それをリードされてきたのがサッカーを包括的に支えてきた読売新聞さんだった。

「僕の若い頃、野球担当の記者でしたが、冬場になると高校サッカーやTOYOTAカップを取材したんです。天皇杯もありましたが、カズ(三浦知良、横浜FC)選手が出始めの頃だったかなぁ、静岡で行われた読売クラブの試合に観客が1500人しかいなくて。やっぱりサッカーはダメなのかなって思ったら、元旦の決勝には5万人入ったんです。僕は高校時代サッカー部だったもので、子どもの頃からサッカーが大好きだったんですけど。どうしてこれだけサッカーが好きな人がいるのに、社会的には野球や相撲に比べてあまりにも小さい存在なんだろうって思ってましたね。それが今みたいになったのは選手も偉いんでしょうけど、我々メディアとしても、組織に属している人もフリーの人も立場が違っても、とにかくいろいろな面でもっとサッカーをメジャーにしようとやってきた。同志的なものもあってね。Jリーグが発足した頃、当時の川淵(三郎)チェアマンと我が社はいろいろな意見対立もありましたが、僕は凄くかわいがってもらって、いろいろ教わったんですけど、それは同じ立場、同じ目標があったから」


——サッカーを盛り上げようと。

「ええ。ドーハの悲劇(ワールドカップ・アメリカ大会アジア最終予選、1993年10月28日、日本代表2-2イラク代表)なんてあったでしょ。これはあまり自慢にはならないけど、“ドーハの悲劇”と最初に書いたのは僕なんですよ。翌日の朝刊に載ってますからね。見出しにはならなかったので、僕の手柄にはならなかったんですが。まぁ、『サッカーマガジン』かなんかが後からそう書いて、世間に広がったんだと思いますけど。あれはね、負けて逆によかったと思うんです」


——今、考えると。

「実力的には、全く世界レベルには達していないのに、あの盛り上がりっていうのはね。あれじゃ、アメリカに行っても酷い目に合うだけ。結局、負けてワールドカップには行けなかったけど、あれがよかった。あのときの悔しさ、もっとサッカーをメジャーにしなくては、本気でJリーグを成功させなくてはという意気込みが、日本代表がワールドカップで活躍するところに繋がった。そういう意味では、個人的にも会社としても、サッカーとの係わり合いというのは切っても切れないくらいで、ずっと一緒にやってきて少しはお力になれたかなと思っています」


——プロ野球、読売ジャイアンツが唯一絶対みたいな時代に、当時はまだまだマイナーだったサッカーを支援されていたというところに、読売新聞のスポーツに対する熱い想いが感じられますね。

「僕が入社したのは1980年なんですが、81年の正月、茨城の水戸支局にいたんですけど、古河一高(茨城県立古河第一高等学校)が高校サッカー選手権で優勝したんですよ。僕は東京に出張させてもらい、地域版でかなり大きくその大会の記事を書かせてもらいました。地域版というのは、ニュースがあるようでない時期も多いので、地方大会から結構大きく扱ってくれていました。全国大会にも、当時はもちろん後援に入ってなかったけど日テレが放送するという関係で地域版用にも記者を出してくれたんですよ。試合の度に記事を書いて、そうしたらドンドンドンドン勝っていって、最後は優勝しちゃったもんで茨城版に一人で300行くらい書きましたね。地域の人にとって地元のチームが勝ったというニュースはもの凄くインパクトがあるわけですよ。スポーツ報道というのは、凄くいい意味を持っている。やっぱり、スポーツを報道することによって読者に喜びを与えられるんです。地元が勝てば、それは凄い効果がある。特に、地域とスポーツということにおいては、野球よりサッカーです。サッカーというのはいいコンテンツだなというのは、昔からつくづく感じています」


——実際に現場で手応えを感じられた?

「手応えはありますよね。野球は昔からみんながやっているスポーツですけど、サッカーの場合、ファンが増えれば増えるほど競技人口も増えてくる、読者も確保できるみたいな手応えを感じますよ。新しいスポーツ、マイナーなスポーツがメジャーになっていくというのはね。それに協力できるということは、メディアとしても充実感があります」


——野球はもうできあがっていましたからね。

「僕が子どもの頃から、もう既にメジャーだったわけですからね。視聴率も30%取って、後楽園球場はいつも満員。そういうのとはサッカーは違っていて。世界のワールドカップは凄いな、ペレに憧れるなと言っても、何だか違うスポーツみたいだし。そういった意味では、TOYOTA プレゼンツ FIFAクラブワールドカップでマンチェスター・ユナイテッドとガンバ大阪が戦ったというのは歴史的ですよ。去年の浦和レッズの方が点数的には接戦だけど(2007年12月13日、横浜国際総合競技場、ACミラン1-0浦和レッズ)、内容的には全く勝つ可能性がないような戦い方だった。ところが、ガンバは勝つ確率がない展開ではありましたけど、非常に前向きに戦っていましたよね。そういったことに協賛社として係われたというのは、非常にありがたいです」


——スポーツ大会からの企業の撤退、企業スポーツチームの解散などが続き、これからはスポーツも厳しい時代になりそうですが、そんな時代だからこそみんなでサッカーを、スポーツを盛り上げていくために、選手、関係者、そしてサポーターの方々に熱きメッセージをお願いします。

「これまでは企業スポーツという形で発展してきましたが、赤字に転じる企業も多く、スポーツを支えきれなくなっています。モンテディオ山形とかアルビレックス新潟とか大分トリニータのように、自分たちのチームはサポーター自身が育てるしかない。そうなったとき、力を発揮するのは我々メディアだと思います。スポーツによって心を豊かにして楽しい人生を送るためには、スポーツがなくなるわけにはいきません。厳しい経済情勢だからこそ、ファンの人たちは自分たちでチームを育てていく。そのために我々は力を貸せたらと考えています」


——“スポーツで心を豊かにする”というのはいいですね。

「ですよね。だからこそ、サッカーも野球もそうですけど、いいスポーツをいい記事にできたらいいなと思っています。今の時代、子どもたちはテレビや携帯電話、ゲーム、パソコンばかり見ていますが、もっと自分たちでスポーツをやってみなければいけない。そのために必要なのは感動する心であり、実際に観ることですよね。もっと言えば、今の子どもたち、若者たちは活字離れ、新聞離れ、本離れ。何もかもが離れちゃってるようですけど、意外と映画なんかの興行収入は悪くない。いい作品は当たっているし。やっぱり、そこそこいいライブは当たるわけじゃないですか。スポーツもそうですよ。実際に観て、空気を感じる。応援の雰囲気だとか、汗の臭いだとか。そういった体験をするということが大切であり、弱いチームだって地元であれば支えたいと思う気持ちが大事ですよね。スポーツにかかるお金が企業から降ってくるのを待っていないで、自分たちで育てる。難しいかもしれないですけど、アイスホッケーの日光アイスバックスはがんばってますよ。立派ですよね。それを支えていくのは、一人ひとりがスタジアムに足を運ぶという行為であり、それをサポートする、支援する、あるいは情報を与えていくというのが我々メディアの責務。それこそが大きな社会貢献であり、新聞社の存在そのものだと思います」


取材・構成:宮崎俊哉(CREW) 撮影:新関雅士

 

塩見 要次郎(しおみ ようじろう)
1956年、東京生まれ。早大政経学部卒。'80年、読売新聞に入社。水戸支局を経て'86年から運動部。西武、巨人担当などの後、'93年からサッカー担当。同年のW杯アジア最終予選、'94年米国W杯、'96年アトランタ五輪など取材。'98年からデスクとして仏W杯、日韓W杯などを統括。2007年から現職。'07年と'08年のTOYOTA プレゼンツ FIFAクラブワールドカップで、特別号外、スターティングメンバー表などを発行。'08年の北京五輪では現地責任者として、助手、宿舎、車両、ビザなどを手配。

読売新聞東京本社
東京本社、大阪本社、西部本社の朝刊総発行部数は、約1001万9407部(2008年7月ABC調査)。全国の都道府県に取材網があり、海外の総支局は計35。
創刊:1874年11月2日
所在地:東京都千代田区大手町1-7-1
URL:http://www.yomiuri.co.jp/
 
感動のシーンを現場で再確認、「読売新聞特別号外」を発行!
感動のシーンを現場で再確認、「読売新聞特別号外」を発行!
TOYOTA プレゼンツ FIFAクラブワールドカップで、読売新聞特別号外を現地で配布しました。ガンバ大阪—アデレード、マンチェスター・ユナイテッド—ガンバ、マンU—リガ・デ・キトの3試合で各1万部。試合終了10分後、「ガンバ初戦突破」「ガンバ健闘」「マンU世界一」の見出しが踊ったカラー写真入りの号外を手にした観客は、「早い」「きれい」「すごい」と感嘆していました。
 
この取材は2008年12月19日(金)に行われました